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ダイバーシティ異論

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◆前回のおさらい


しつこく、前回(『女子力私論』)の続編です。
 https://newspicks.com/news/2024717?ref=notification
ただ、話は一気に展開して、ダイバーシティ(多様性尊重)論に移ります。

まず前回述べた見解を自己否定するようですが、私は本音では「女子力」等という用語は使いたくありません。
あんな意味すらあやふやな言葉を使うのは、はっきり言ってまっぴら御免です。
現代の状況の中では、悲しいかな「よりまし」というだけのことでした。

そもそも、なぜ女性を褒めるのに持って回った言い方に煩わされなければならないのか?
本来かわいいと思えば「かわいい」、美しいと思えば「美しい」と率直に述べればいいだけのことです。
その事情は前回詳しく書いたわけですが、リスクがあるからでした。
とりわけ、フェミニズム的なメンタリティの影響によるリスクです。
女性を女性として褒めることで、なぜか「女性の性的側面だけに殊更注目し、性的に一面化する差別的意図がある。」との言い掛かりを付けられたくないがための苦肉の策でした。

では、女性の女性性に注目した率直な言葉を述べるのは、性差別なのでしょうか?
今回は、この根本的な疑問を、ダイバーシティの観点から検討してみたいと思います。

 

◆昔の出来事


話はぐっと過去に遡りますが、学生の頃、身障者の介護ボランティアに関わっていたことがありました。
実際に知的障害者の男の子の介護に参加したこともあります。
夏休み等、その小学生の子が学校に行かない時、お母さんが仕事に出ている間、面倒を見ているわけですね。

そういうボランティアをする緩やかなグループがありました。
私の場合は元々意識が低いので、自分から主体的にこういう活動をしていたわけではなく、大学の先輩に極めて熱心に取り組んでいる女性がいて、半ば「強制的」に参加させられていただけですが。。。

ある時、そのグループで事件が起きました。
同じくボランティアグループのメンバーだった他大学の学生(※仮にA君とします)が、介護に入っていた重度身障者の女性を妊娠させてしまったんですね。
当時女性と満足に付き合った経験も少なかった私には、これは極めて衝撃的な事件でした。

しかし、そこで私の脳裏に浮かんだ正直な思いは、意外なものでした。
簡単に言うと、A君への「尊敬」の気持ちですね。
分かると思いますが、重度身障者の人の姿や振る舞いは、健常者とは明らかに異なります。
四肢の動作が障害で著しく制約されるだけでなく、顔の表情も自由にコントロールできません。

当時の私は、はっきり言って差別意識の塊だったと思うのですが、そういう障害者女性を恋愛対象とは全く捉えていませんでした。
そのことに、この事件に接して思い当たったんですね。
それなのにA君は、その障害者女性を、健常者女性と何の分け隔てもなく認識し、全く対等な異性として接していたわけです。要するに、「女性として見ていた」わけです。
なんと美しい、純粋な心でしょう。
この時ほど、私は自分の偏見と不明を恥じたことはありません。

 

◆本当に多様性を尊重するとは?


さて、フェミニズムに支配された現代社会では、接する女性に年齢も家族構成も訊かず、女性性にだけ着目した(あるいは着目していると誤解される恐れのある)質問は一切発することなく、当たり障りのない、相手を不快にする可能性が全くないコミュニケーションに徹することが、女性を尊重する大人のスマートなコミュニケーションとされています。

そうしたフェミニズム思考はやがてダイバーシティ論と結びつくようになりました。
性差に触れて「性差別」と誤解される恐れのある言動、また組織においては差別と受け取られかねない施策や処遇は一切除去しなければならない約束の中に、私たちは生きています。
それどころか、ポジティブアクションということで、性差別が生じかねない環境や状態そのものを積極的に取り除いていく努力すら求められるようになっています。
企業では女性管理職比率の目標が設定され、国レベルでも何年か後に女性管理職比率を3割に引き上げると言っています。

さて、そのように腫れ物に触るようにして人間関係を切り結ばなければならない状況。
それで世の中が良くなるならいいのですが、婚期は遅れる一方、婚姻率は下がる一方、そして少子化には全く歯止めは掛かりません。
日本は少子高齢化と人口減少、そして子供たちの未来を真っ暗にする道をひた走っています。

そんな時、遠い記憶の中にあるA君のことを思い出さずにはいられません。
自分の思いに真っすぐで、その思いのままに他者に接していたA君。
障害者への偏見になど全く惑わされることのなかったA君の気持ち。
「かわいい」とか「きれい」とか、この社会で記号化された女性の「特性」=男側の思い込みともまったく無縁の世界に、彼は生きていました。
その率直さを、そして純粋な心を忘れないようにするのでなければ、いかなる多様性尊重も、社会変革も意味はなさないだろうなと、時々思うのです。