熊本復旧ボランティア記

 

4/28~29にかけて、NP上で呼びかけを行った熊本への復旧支援に行ってきた。
※熊本オフ最終呼びかけ記事
https://newspicks.com/news/1523341?ref=user_713126

すでに、現地での一連の経過については、nekogusuさんがレポートをアップしてくれている。
※熊本ボランティア・オフ会レポート
https://newspicks.com/news/1530385?ref=search&keyword=田添&tab=news

そこで、ここでは、29日に行った復旧支援ボランティア活動を中心に、少し掘り下げて報告しておきたい。

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 ※支援先のお宅から見えた、熊本の綺麗な山並み。

阪神大震災の記憶】
1995年は、年初から慌ただしい年だった。
年が明けると、阪神大震災が起こった。
テレビ等で報じられる光景から、大災害であることはすぐに分かった。
直ちに国を挙げての救難支援が行われると共に、その後は、全国から多くの人が現地へ食料や水を抱えて親戚や友人の支援に向かった。
実は、この時のことは、私にとってはやや苦い思い出である。
震災での被害が深刻だった兵庫県尼崎市に、学生の頃とてもお世話になって遠い親戚があったのだ。
しかし、私はこの時、ちょうど勤めていたメーカーを辞めて転職する時期に掛かっていて、身辺が慌ただしかった。
そうして「行こう、行こう」と思っているうちに、時期を失してしまった。
そうするうちに、3月には東京で地下鉄サリン事件が起こった。
当時千代田線を頻繁に利用していた私は、数本の違いで、危うく巻き込まれるところだった。
やがて、阪神大震災のことは、私の心から遠ざかっていった。

 

東日本大震災の発生】
時は下って、2011年。
既に自分の会社を創業して5年目の年、仕事の受注に直接の影響を受け、苦い思いでいっぱいの年になった。
ただ、3月の震災発生直後から、東北への支援ボランティア行きを模索した。
阪神の時のような悔いを残したくないと、すぐに思ったからだ。
幸い、当時社会福祉協議会の全国組織である全国社会福祉協議会(全社協)での仕事を引き受けており、そこの担当者の方から、ボランティア参加にあたっての情報を色々と聞くことができた。
ネットを通じて日々情報収集するうちに、地元の中野区社会福祉協議会が、宮城県へのボランティア参加者を募集していることを知り、迷わず申し込んだ。
なんと、交通費、宿泊費共すべて社会福祉協議会が負担してくれる。もっとも、宿泊はテントだが(笑。
宮城県亘理町という、震災がなければ山と海の景色が素晴らしい街に、3泊4日で行くことになった。
季節は震災発生から1か月後の4月中旬。亘理町では、ちょうど桜が満開を迎えていた。
テントでの寝起きは、朝晩非常に冷え込んだが、地面から直接体に余震の揺れを感じるという、得難い体験もした。

 

亘理町でのボランティア】
4日間あったので、様々な支援活動を行った。
中学の体育館に集められた、津波に浸水した家屋から持ち出された写真の仕分けに始まり、津波に襲われた民家の床板を剥がしてのヘドロの掻き出し作業等も行った。
もっとも大がかりだったのは、公民館のヘドロ除去作業で、そこでは数十人で一緒に作業に当たった。
この時の一連の経験は、何をとっても得難いものだった。
早朝のボランティアセンターでの派遣先の割り振り、チーム編成、派遣先により変わる装備、そして戻ると炊き出しの食事をごちそうになったこと、また近所の設営されていた自衛隊の大きなテント風呂に入らせてもらったこと等々
そこで知り合ったボランティアの人の中には、今でも連絡を取り合っている人もいる。
そして、この経験は、今回の熊本での活動に色々と役立つことになった。

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 ※亘理町を見渡す丘で。

【熊本支援オフの呼びかけ】
4月14日に最初の大地震、16日に本震が発生するという特異な震災となった熊本地震だが、その後の大まかな「流れ」は、東日本の時の経験から大体見えていた。
最初の数日は、とにかく大混乱だ。ここでは、人命救助が優先される。
その後一週間程度は、徐々に混乱が収まり、支援体制や避難所の体制も固まり、電気、ガス等のインフラが少しずつ復旧しはじめる。
そして、約1週間が過ぎた4月20日、最大の被災自治体である熊本市から、支援ボランティア受け入れが発表された。
熊本県のボランティア情報告知サイト
 http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_15404.html?type=top
この情報を見て、急遽現地NPメンバーのあにゃまる、gotou氏と連絡を取り合い、支援オフの段取りを固めた。
熊本在住の両氏も被災はしたものの、深刻な被害には遭っていなかったのが幸いだった。
行きがGWに掛かると交通混雑に合うため出発・熊本入りを前日の28日に決め、翌日29日に支援ボランティアに入る計画を立てた。
それから、まずは宿の手配。本当に偶然にも市内ビジネスホテルの一部屋を予約サイトで確保できた。
次に交通の手配。
これは、まずレンタカーから行った。
というのは、東日本の経験から、支援に使える車があると、移動や支援先のマッチング(※こうした災害ボランティア活動では、現地事務局が、それぞれの条件に合う派遣先案件を割り当てる)に極めて有利なのだ。
しかし、何件か熊本市内のレンタカー店舗の電話してみても、どこもつながらない。
それもそのはず、現地では、様々な復旧ニースにレンタカー予約が殺到しているのだ。
仮に借りられたとしても、それでは現地で必要なクルマを1台奪ってしまうことになる。
そこで、福岡空港に入り、そこでクルマを調達することにした。これは、すぐに借りることができた。
さらに、往復の航空券の手配を完了し、いよいよNPでの呼びかけだ。
とはいえ、簡単な記事を書くだけなので、翌日の21日夜には、記事をアップできた。

 

【チーム編成】
NPでの呼びかけ記事への反応は予想外のものだった。
こんな地味な支援活用にも関わらず、多くの方から前向きのコメントが寄せられた。
いつもなら、大抵は、冷やかしたり馬鹿にしたコメントが少しは混じるのだが、今回だけはほとんどそうした不真面目なコメントが無かった。
そして、結果的に5名のボランティアチームが編成できたのだ。(28日のオフ会参加は7名)

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  ※活動終了後、ボランティアセンターでのショット。
「5名」というと少ないと思われるかもしれないが、東日本を経験した私にはこれがいかに「偉大な数字」かが分かる。
あの時も、実は周囲の友人・知人に声は掛けたのだが、全員「業務繁忙」を理由に断られた。
それに、皆さんもニュースで見たと思うが、最大拠点の熊本市ボランティアセンターに毎日駆けつけているボランティア希望者の数は、色々言われても高々1000名程度だ。
そう、もうお分かりですね。
この5名は、日本全国合わせて千人のうちの5人! つまり、1000分の5!なのだ。
それが、NP記事での1回の呼びかけで集まったのである。
これは、とりもなおさず、正にこの場の力だ。
日ごろからコメントを通じて意見交換し合い、その意見表明を通じてお互いのことを知り、多少なりとも信頼し合っているネットワークがあるから実現したことだと思う。

 

【復旧支援ボランティア当日】
物事がうまく回り始めると、何事も次々にうまく転がるもの。
少し早めに現地に集合した我々5名(※この時は、既に「NPファイターズ」に変身)は、多少混乱する会場の中、とんとん拍子で受付~オリエンテーションを潜り抜け、あっという間に最適の支援案件を紹介された。

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 ※ボランティアセンターでのオリエンテーションの様子
やはり、男女混合の5名チームであったこと、そして移動用のクルマを確保していたことが大きかった。
対象は、熊本城北方の高台に広がる閑静な住宅街の一角。
震災で、通行止めの道も多い中、クルマのナビがなければなかなか辿り着けない場所だった。
そこに、一人でお住いの70代女性の家の中の片づけを手伝うことになった。
改めてメンバーを紹介すると、ファイターズ戦士は次の5名だ。
 ・neko gusu(※広島在住)
 ・Okura Syozo(※大阪在住)
  ・Mirai Yuka(※佐賀在住)
 ・あにゃまる(※現地在住)
 ・田添(※東京在住)
ちなみに、受付の行列に並んでいるうちに、熊本県民テレビと毎日新聞のインタビューを受けたのは、既報のとおりである。
テレビはその日のニュースで放映され、毎日新聞は全国記事に掲載された。
※毎日記事の紹介スレッド
 https://newspicks.com/news/1530745?ref=user_713126


【復旧支援活動】
何とか見つけたお宅は、かなり古い鉄骨3階建ての住宅。
そこに、依頼者の女性が一人住まいをされている。
鉄骨造りが幸いし、建物の外形には大きな破損はなかった。
ご主人は亡くなられたようだ。
女性は、とても上品な明るい方だった。
依頼内容は震災でめちゃめちゃになった室内の片づけ、ゴミ出し、整理清掃なのだが、前日にもボランティアの支援が入ったらしく2階までの片づけは既に住んでいた。
我々のミッションは残る3階だ。これなら、じっくり安全に作業を進められそうだ。
そこで、さっそく上がってみると、室内は、まるで洗濯機でかき回されたように、物が積み重なって散乱状態だった。
床は見えないが、少しずつ整理していくと、ガラスの破片等も散乱しており、極めて危険な状態だった。
全員スリッパを拝借して履き、厚手の作業用軍手(※掌部分をゴム加工したもの)を着用して作業に取り掛かった。
一旦すべてのものをベランダに運び出す。
明らかな廃棄物や破損した家具はゴミ置き場に持っていく。
3階からの運び出しで、あにゃまるは、太腿に乳酸が蓄積した旨、しきりに訴えていた。
清掃後、床拭きをして仕上げ。
今度は、置いておく家具や布団等を並べなおして、任務完了だ。
作業中、ベランダから西方に見える山並みが素晴らしかった(※冒頭写真)
山から吹き下ろす、そよ風が心地よかった。

 

【任務完了】
途中、奥さんが買ってきてくれたほか弁とお菓子をご馳走になった。
今回の作業中、紅一点のYukaさんが、ずっと奥さんの話し相手になって、要望をよく聞きだしてくれたのが本当に助かった。
作業の一つ一つ、捨てるもの残すものの選別等、依頼に細かく対応できた。
その過程で色々なご家庭の事情も知ることになったが、一つ印象的だったのは、ご長男のことだ。
実は、片づけた3階の部屋は、その長男がかつて使っていた部屋だったのだ。
沢山の散乱物を片付け終えようとする時、ひとつの額縁写真が出てきた。
全員が制服制帽を被った集合記念写真だ。
聞けば、ご長男は警視庁に就職されて活躍中で、その任務のため、被災した親元にも帰れないと、実に寂しそうに語っておられた。
その任務こそ、この5月に開催される伊勢志摩サミットの警備活動なのだった。
そんなことも含め、やはりどのようなことであれ、チームは極力男女混成部隊であるべきだと痛感した。

 

【お別れ】
最後帰り際に、一応ボランティアの継続ニーズを奥さんに確認した。
もうほとんどやるべき作業は終わっている。
それでも、奥さんは依頼を迷っている様子だった。
そう、つかの間の賑やかさを届けた我々がいなくなるのが、とても寂しそうなのだ。
ご長男の帰郷が叶わない中、史上稀に見る震災に見舞われ、家の片付けのメドも立たず心細かっただろうと推測する。
最後は、「名前だけでも」と強く請われ、我々の名前を1通の絵葉書に書き記して、お別れとなった。

奥さんは、何度も何度もお礼の言葉をかけてくださった。
その後チームは、あにゃまるを地元に残し、佐賀へ帰るYukaさんを熊本駅に送り、最後nekogusu、Okura両氏を無事博多駅まで送り届けて解散となった。
私以外ボランティア初参加のメンバーばかりとはいえ、被災地に思いを寄せ、貢献意欲に満ちたチームのパフォーマンスは実に高かった。
そのためか、この年にして、ほとんど疲れを感じない中での活動終了となった。

 

【ボランティアへの若干の考察】
災害とは、いうまでもなく非常事態だ。
しかし、支援する側は日常にいる。
とはいえ、支援する側がその日常から抜け出せなければ、被災地支援活動は決して実現することはない。
たしかに、皆日常の仕事に忙しい。
アポイントが入っている。シフトが組まれている。上司の断れない命令がある。
家族がいて、家族の世話がある。
しかし、どうだろう。
被災とは、そうした日常一切が断ち切られ、場合によっては命の危機にさらされることなのだ。
命の危機を乗り切れば、すぐに生活の危機が待っている。
そうした時、我々が多少なりとも被災地に思いを寄せ、支援に立ち上がる気持ちを持つなら、がんじがらめの日常から、ほんの少し踏み出す勇気を持ってもいいのではないだろうか?
その勇気は、決して被災地だけのためにあるのではない。
そこで目にする光景、出会う人との交流を通じて、我々自身を振り返り、新たな関係性と世界を知る道に繋がっている。

<完>