NPで振り返る2015年Ⅲ~対話編~

秋の陽足は早く、家路につく人々もまた足早に過ぎ去る。
ついこの前まで頬に心地よかった風も、日暮れとともに掌を冷たくする。
楽しかった京都の宴も過ぎ去り、その後の空白に、また孤独が忍び込む、、、
そんな夜はNPだ、と思っていたら、kaikeiブログの横やりが入ったので一晩空いてしまった。

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しかし、京都では徹夜組も多かったとか。
たぶん、その疲労は今夜まで持ち越されていることだろう。
Like獲得を目指す者は、そんな論客不在の時こそ、下剋上のチャンス到来だ。(←ややしつこい)

さて、一昨日も減ったとはいえ、コメントを沢山いただき、しかもその内容が濃かった。
なかなか振り返りが先に進まないが、まずはそれを受け止めてみよう。

 

◆自己開示のリスク

神楽ちぇぶぞうさんから「自己開示もほどほどに。」とのコメントがあった。
これは一面の真理なので、まずはここを掘り下げてみよう。

隠していた訳ではないが、自己開示は、グループ対話メソッド(※組織運営やリーダー教育等に使う)の中にそれを組み込んだものがある。実際に、企業組織でも運用されている。
この辺りは一応専門分野なので、コンサルティングでも、繰り返し取り組んできた。

5-6人程度のグループで、対話を行う。
別に自己開示を推奨するわけではないが、メンバー間で共感を意識して進めるように仕向ける。
そうすると、自ずと自己開示を上手く行う人に共感が集まり、その共感を中心にグループの結束が生まれるようになることが分かっている。
もちろん、一連の対話を円滑に行うには、進行役のコーチ≒コンサルタントの力量がポイントだ。

で、問題はそのコーチの技量が不足していると、時に「事故」が起こる。
話しているうちに、自己開示を「暴走」させてしまう人が現れるのだ。
幸いにして、自分が担当する企業でそんな体験はないが、他企業を見学している時に何度か目撃したことがある。
その時、話を続けるメンバーは涙を流して泣き始め、それでも「告白」を止めることはなく、号泣に至る。
やがて呼吸もままならないほどの状態になり、当然グループ対話は中断を余儀なくされる。
要は、そんなリスクがあるということだ。

 

◆コメントのスタンス

Like獲得への道のりは、決して平たんではない。
では、そこに何が足りないのか?
まずは、NPの「自分語り王」がどうやっているかを見てみよう。
とりあえず、「彼女、お金、デート、非リア」などを検索に叩き込んでみる。
まあ、出るは、出るは。検索画面は、この男の自分語り=自白記事で一杯だ(笑。
別に何でもいいのだが、10/22のpickをのぞいてみる。糸井重里の記事だ。

https://newspicks.com/news/1215004?ref=search_138449&keyword=彼女 お金&tab=comment

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「「ひとり時間」の挑戦。
まさにぼくにとって、タイムリーな記事だ。
ぼくはわざと非リアになっているが、これまで彼女依存症となったり、仕事に行かなくなったり、お金を無駄遣いしていた。
ふつうはリア充=幸せなのだが、ぼくはバランスが悪い、不幸せだ。
おかげで仕事に集中でき、お客、スタッフに迷惑かけることはなくなった。
週1日しか自分の家に帰らないほどだ。
どうしても仕事人間だけに、いまが心地がいい。
現在は、できるだけ一人でいるようにしている。
友人とも会う頻度を抑える。友人と遊ぶと、楽しく飲み歩いてしまう。
しかし、友人がいないとなにもできないのだ。
考える時間を作りたいというより、一人で人脈などを切り開きたい。
だれもが死ぬときは一人なのだ。
清水健太郎くん、そうなのだ。リリーは、ぼくがいないとくーんくーん泣くから、ずっと傍にいてやんなきゃだめなのだ泣」
(※以下、省略)

ここにしばらくいる人なら、この語り口、もう嫌になるくらい目撃してますね?(笑
とにかく、なにはともあれ自分の話に持ち込む。これが、この男の不動の戦略だ。
ところが、このコメントですら「47Like」。
まずは、自分語り=自己開示が共感を呼び起こしてしまう現実を、悲しいかな受け止めなければならない。

さらに見てみよう。
言わずと知れた自分のことの羅列だ。しかも、すでにどこかで見たような新鮮味のない内容ばかり。しかし、今はそのことは置いておく。
注目すべきは、この男の語りが、事実(もちろん証拠はないので、噓かもしれないが)を淡々と提示しているということ。つまり、文章が一応事実ベースなのだ。
多少感情も交えてはいるが、そこには微妙な抑制が効いている。

反対に、読み手(または聞き手)に対して事実の経緯がわからなくなったり、ほぼ感情の吐露が中心になってしまうと、自己開示は次第に“告白”へと変質していく。
告白は、自己開示とは似て非なるものだ。
その決定的な相違点は、自分の感情をコントロールできているかどうかにある。
感情が暴走をはじめる時、人は自分を見失い、そして同時に、あなたの話に耳を傾けてくれているはずの他者を見失うことになる。

あなたが今にもキーボードを叩き、スマホをフリックしようとしているコメントの、その言葉の一つ一つが、他者にとって読む価値のある情報であること。
自己開示しつつも、間違っても「告白」へと傾斜しない、ぎりぎりのバランス感覚がピッカーには求められている。
もちろん、既に述べたように、特定の「ポジション」に居つくスタンスは論外だ。
その意味で、差し当たり自分事とはいえ事実を提示することは、捨てがたい戦略といえる。
自分事であれ、それが他者にとっての新しい情報であるかぎりは。
そう、まずは事実=情報を述べること、それをまずは、私たちピッカーの文化とわきまえようではないか。

 

◆対話と文脈

おさらいすると、コメントは、まず事実=情報の提示を旨とする。
事実に関わる自分の見解、気持ち=感情を書くのは、その後だ。
それに、見解は、別になくてもいい。
まして、見解や感情だけのコメントになってしまうのは、とりあえず避けたい。リスクが大きいのだ。
現に、事実=情報提示だけで、多くのLikeを獲得しているコメントはたくさんある。

さて、もうここまで読んでくれたあなたには、NPでコメントするという行為が、単に一方通行の発信ではなく、実質的に他者との対話(=双方向のコミュニケーション)だとの理解を共有していることだろう。

先日のコメントで、三上さんは次のような貴重な見解を提示してくれた。

「一般的には多くの人は寛容性がある程度高いので、異なる意見があった場合は、新しい発見と捉えるとか、自分はちょっと違うけれど色々な考え方の人がいるなーという感想を持つ。
しかし、時に自分の意見以外は認められない人にとっては、過半数が異なる意見の場合は「こんな同調圧力には屈しない」という意地に脳内転換される。もしくは「自己否定された」という被害妄想がむくむくと膨らんでしまう。」

まさに、その通り、
コメントが、暗黙にであれ顕在的にであれ、双方向のコミュニケーション行為であると理解していないと、いかに社会的地位を持った人でも、こういう見苦しいことになってしまう。

さらに、昨今イケメンピッカーとして名を馳せる安武さんは、次のような言葉を告げてくれている。

「いわゆる右とか左のポジションはほとんど感じなくて、でもブレているようにも感じなくて、あえて言葉にするなら「『筋(すじ)』を重視」するというポジションなのかぁと感じています。
ドライな「ロジック」重視だけでない、ウェットなところも含めた「筋」重視です。」

その彼言うところの“筋”とは、この“場”の“文脈=コンテクスト”と言い換えてもいいかもしれない。
では、その文脈を、私たちはいかにして汲み取ればいいのか?
そう、それこそが、まさに対話だ。
他者が発するコメントに、まずは静かに耳を澄ます。
まして誰かが自分に質問=問いかけをしてくれたり、フィードバックをくれている時は、それがどんな内容であっても決して見逃してはならない。
そこを素通りするような者に、決してLike獲得への道は開かれてはいないのだ。


また、振り返りからかなり脱線してしまった。
続きは、またの機会に。